私達は今平和な日常のなかでひたすら絵を描き彫刻の制作に精を出している。
しかし近年世界は年ごとに格差や対立が深まり政治的な不安定化が進んでいる。
最も安定しているかに思われているヨーロッパでさえ政治的状況は揺らいでおり、歴史が逆戻りしつつあるか危惧される戦争や紛争は収まる様子を見せず曾野綾子の言葉が真実味を帯びてくる『闘争ということは人間と動物にとって一種のゆるぎない持続可能な最高の手近な快楽なのである、だから局地戦争も部族抗争も宗教戦争も決してこの世から無くならない』
2023年時点で紛争による国内外の難民は1億2千万人である。絵を描き自己を主張することとは何なのか。何が出来、何をしなければならないのだろうか。
自由美術の創立と再出発に関わった人達は戦争と直接的な関係のなかで芸術活動を成立させた芸術家集団であると云える。
自由美術は第二次大戦による傷を背負い又会員はそれぞれが戦争により多くのものを失ったまゝ戦後の人生の一歩を踏み出したのである。
松本竣介は1941年に行われた軍人と著名な美術批評家の座談会「国防国家と美術」━画家は何をなすべきか」に対して「生きている画家」で芸術に於ける普遍妥当性の意味は……ヒューマニティとして理解している」とみづゑに発表し気概を示した。勇気だけでは出来ない使命感に迫られてのことだろう。
浜田知明は戦争の残酷さや悲惨さ、加えて軍隊の野蛮さや愚劣さを5年に及ぶ自身の軍隊経験の上に「初年兵哀歌シリーズ」を発表し世界の注目と感動を呼んだ。これは二次大戦が敗戦国ばかりでなく、戦勝国、特に激戦地となったヨーロッパでは天文学的数字の命が失われ人々は心に重い傷を負ったまま生活の再建に取り組まざるを得なかった現実がそうさせたのだと云える。戦後を代表する「重い手」「群像」を描いた鶴岡政男、麻生三郎描くところの人物像も又戦争の影が色濃く背景づくっている。
戦争による傷や戦争の愚かさを描き続けた画家は自由美術以外にも少なくない。ピカソのゲルニカ、香月泰男のシベリアシリーズ、ベンシャーンの数々の作品などは社会に大きな影響を与えた。周知のことだがゲルニカは1937年フランコ軍がドイツ軍の助力を得てバスク地方の街ゲルニカに対し無差別爆撃を行ったことに抗議して描かれた、香月泰男は自身のシベリアのセーヤ強制収容所の体験を綴る様に描いた「シベリアシリーズ」である。戦後であるにも拘らずシベリアで55,000人の日本兵の命が飢えと寒さと苛酷な労働によって失われたそうした現実の体験から描かれた作品は見る者の心を深くえぐる様な感動をもたらしたのである。
この時代の自由美術の作品や香月泰男の作品に共通する問題を麻生三郎が指摘している自由美術の仲間の作品とゲルニカを比較してピカソは立体派を通過したことにより合理的でないものは一切整理される…健康なピカソの線は大変羨ましい、しかし病んでいる人間たちの精神はけっして計算された構造をもち得ない、という意味のことを語っている。
戦後、自由美術とは何か、又何をしようとするのかという公開研究会の対談にも自由美術の姿勢の一端を見ることができる。
参加者は花田清輝、椎名麟三、安部公房、埴谷雄高、寺田透、荒正人、佐々木基一と自由美術の会員数名である埴谷雄高が日本の文学も絵画も同じだが外国の影響からまず新しいものができるので現実の中からできたものではないのだ、変な近代性だと発言している。そして表現の原点は如何にあるべきかについて議論が進められた。

今回の個展が決まったのは、3~4年前のことでした。
嬉しいと思う反面、果たして出来るのだろうかという不安が大きく、心にのしかかっていました。不安を払拭すべく、福山で大作が掛けられる画廊を探しました。そこでの個展に自由美術の仲間が広島・岡山・香川からも来てくださって、大きく背中を押してくださいました。
「宇フオーラム美術館」には、100号を20点持って行き作品を並べ替えながら、14点を展示しました。家では小さな部屋で仕事をしていますのでとても新鮮でした。広い場所でゆっくり作品と対峙できました。駅から遠く来て頂けるかどうか心配しておりましたが、自由美術の先輩、仲間に沢山おいで頂けました。お名前と作品は知っていても人物を存じ上げない方が多かったので結びついて嬉しかったです。自由の先輩から、持って帰ってそのままにしないで、気になるところを加筆したり、削ったりしてなどのアドバイスを頂きました。都美術館で、東京自由美術展を見せていただけたのも勉強になりました。
最後に、搬入搬出をお手伝いしてくださった西尾さんに心より感謝申し上げます。





私は現在、小規模ながら『ギャラリー・絵画教室 WAY』を経営しています。その設立への経緯を紹介したいと思います。 私は今年で75才になります。15年以上も前のことになりますが、定年(60才)を控え、退職後の仕事について思いを巡らしていました。それは、県立高校の美術教師として勤めた37年間という長い経験を生かした絵画教室を開設し、自分の作品を常時展示できるギャラリーを設立することでした。そのためには敷地内に別棟で絵画教室とギャラリーを併設した建物、そして広い駐車場が必要でした。土地の確保、建築許可、資金面のことなど課題が山積みでした。四苦八苦、右往左往、トラブル続きの連続でしたが、皆様方のおかげで、何とか設置することができました。定年直後の7月にオープン記念展を開催し、沢山の方々に見て頂いたっことを、ありがたくも幸せに思った事を鮮明に思い出します。
あれから、10数年の月日が経過し、今年の4月29日から5月6日まで、自分の建てたギャラリーで、初めての個展(絵画展)を開催しました。会期中、多くの方々に来場頂き好評でした。昨年、受賞した靉光賞の作品も展示することができました。又、5月3日は金婚の日でもありました。展示された作品はもとより、教師時代の生徒さん方との思い出話など、夢と現実が一致した素敵な日々でした。皆様方のお陰であると感謝しています。


40年前南アルプスのふもと尾白の森で2人の人に出合った。1人は1回り年上の画商、1人は物作り好きな同年代の美術作家、画商は2千坪の山林を借り、作家と2人で2階建て土壁の画廊を作った。
体験型画廊で、染め物をしたり、縄文の野焼をしたり、コンサートをしたりした。そのなかで物作り好きの彼が中心になり、何人かで4mの陶芸穴窯を造った。何度も失敗しながら窯焚も出来る様になった。
森には何もないけどなんでもある。木を切って家を建て、土をつくって器にし、草や葉っぱでテンプラを揚げ、楽しかった。あの頃は森にいるだけで創作のエネルギーが湧いていた。
残念ながら2人共ここ数年で立て続けて亡くなってしまった。森は更地にして返す事になり窯のレンガは自分の家に運んだ。又ここで窯作りしようと思う、土に触っていると自然にエネルギーが湧いてくる。
今回の個展では、あの頃を忘れない様4枚の森の絵を描いた。更地になりキャンプ場になったという尾白の森には行っていない。


2011年から1年おきに、私は個展を行っています。当時教えを受けていた先生の勧めもあって、勉強にもなるかと思ったからです。毎回、本当に勉強になりますが、個展の期間中は、なんと言っても私の絵だけしかそこには存在しないのだから、毎日良くも悪くも絵と向き合う事となってしまいます。だから落ち込む事も多々あります。興味深いのは観に来てくださった方々と話しをする中で、色々な見え方がある。と言う事に気付かせてもらえます。面白いですし、本当にありがたいです。だから私にとって個展は、私の絵『作品」に対する想いと向き合うきっかけのようなものにもなっています。表現や何を描きたいのか、と言うことよりも大切な問いかけです。
「何故、絵を描くのか?」
「描きたいから。何かは分からないけど、その何かを描きたい、だから描く!」
私にとって、心の叫びにも似た問いかけの答えは、絵を描くうえでの原点でもあり原動力でもあると改めて気付かせてもらえるのです。個展は、作品の世界観のようなものを発表するだけではなく、私にとってのその答えを思い出させてくれる、貴重で大切な時間でもあると思っています。



ギャラリーの方から個展を開かないかというお話をいただいてからお返事をするまでに一年以上かかってしまいました。会場が広い、今の作品の内容と質で自信を持って並べられるだろうか、あれこれ不安と自信の無さで迷っていました。再度お話をいただいたとき、たいした作品でもないのに何度もお断りするのは失礼だろう、担当の方の人柄も信頼できそうだと覚悟を決めました。会場には51点の作品を並べました。展示を終えるとこれまでやってきたこと、現在やっていることが良いこと悪いことを含めて浮き上がってきま
初日の会場に独り居て、改めてこれからのことを考えました。焦らず、慌てず、諦めず、自分なりのテーマを掘り下げ、自分なりの確信と覚悟をもって制作を続けていくのだと何度も何度も自分に言い聞かせていました。雑事の多い日々を、なすべきことを忘れず丁寧に過ごすしかないのだと。今回はできるだけ会場に居ることを心掛けました。お世話になっている方や版画の仲間にご挨拶ができ、これまで応援していただいていた方に初めてお会いできたり、新たな出会いもあったり、嬉しく貴重な時間を持つことができたのはありがたかったです。会期を無事に終え、とてもほっとしました。 今では遠い日のように感じますが、 ざらりとした手応えが残っています。 会場で自分に言い聞かせたことをときどき呪文のように唱え、日々を過ごしています。



2023 年12 月5日( 火 )~ 12月10日(日)さいたま市立大宮図書館展示スペース
『ミクロコスモス~遺跡』2008年から現在までの作品を展示
私の地元の大宮で大規模な展示スペースが見つかり、これまでとは違った、 大きな個展が出来ました。 今回は、さいたま市の芸術祭と重なって、 大勢の人が観に来てくれて大盛況でした。 また、過去26年の100号以上の作品20点を並べてみると、いままでの仕事が確かなものだったとわかり、これからの作品制作に大きな自信となりました。 過去と現在の作品とを、目の前にして思ったことは、表現が変わっても作品の根本的なコンセプトは変わらないということです。
遺跡が発掘された。何千年も前の人々の生活が柱の穴地表を掘り下げた地底にこげ茶色と黒のコントラストがあった歪んだ線と楕円ブルーとオレンジ 乾いた黄色一見無機質な風景から古代の人々の生活が立ち上がってくる。表現は変容しなければならない表現は自らの生育と共に進化してゆく表現したものには常に満足は無い
「遺跡」 F100
「遺跡」 p40
宮田 啓子
「縄文と創作そして私」
若い頃赴任した京都乙訓の地で初めて、長岡京の遺跡の発掘現場を目にして以来、古代遺跡への関心と憧憬は今に続く。その対象はやがて、古墳、弥生、縄文時代と時を遡ることとなり、赤城山麓の縄文土器「焼町式土器」に辿り着く。
5000~4000年程前、日本独特の自然条件の中で厳しい自然を畏怖し敬って生きた人々の暮らしと祈り、その考え方は現代の自然、生命をないがしろにする価値観とは真逆のアニミズムの世界観が、見事にこの焼町土器に生きづいていると感じる。
私は作品に、土(陶土と発掘土とジェル)を地塗りしてからマットな地肌を作った上に水性顔料で形をとっていく。
学生時代に学んだフレスコ画の技法を応用し、縄文へのイメージを立ち上がらせてゆく。まだ乾ききらない土の画面に、様々な用具でマチエールを創る楽しさも味わったりしながら。
そして仕上げには堅牢さと発色を保つために、油絵具や岩絵の具を用いる。独自性を試行錯誤する中での混合技法だった。
題材としている「焼町土器」は縄文土器としては最大級の60~80cmの高さをもつ。口縁部には抽象化された鳥の頭、側面には小動物、流水や記号様の形でびっしりと埋め尽くされている。この不思議な文様には、文字を持たなかったとされる縄文人の訴えや祈りが記号として込められているのではないか。その造形能力や抽象化をする感性には向き合うたびに驚かされる。
今回の会場は築150年という歴史的な京町家の「堺町画廊」。重厚な柱梁、高い天井に古い土壁の空間は「土」を用いた作品とマッチし、来場された方からも一体化して落ちつくとの感想が多く、作品と展示空間についても新たな気付きのあった個展でした
「土と火と水」 F100
「水を抱く器」 F10
4年前 K'sギャラリーの増田さんから突然抽象画の個展をやってみないかとお話をいただいた。私の作品は表面は具象風景画ではあるが、初めの導入は線と色面の抽象構成から始まる心象風景である。それを感じてもらえてのお誘いなのだったと思う。 それから暗中模索の個展1年目、2年目を経て今回3度目となる個展となった。 当初、抽象の定義とは何かと頭を悩ませた。そして制作を進める中、ふと20年前に立ち返り思い出した。当時から抽象表現にあこがれがあったが、今から偶然のマチエールや道具を使った雰囲気に頼っていたら将来行き詰まると思い、また自分が何を表現したいか固まってもいなかったので、いつか何かが見える日が来るまでとりあえず基本に立ち返りがむしゃらに筆のみで実直に手を動かしてきたのだった。あろうことかすっかり当初の目的を忘れていたが、今回個展の機会をいただきこの20年来の仕事がようやく実を結び始めたように思う。 毎年テーマとなるモチーフは変化しているが、今回はいつも描いている風景の色面をより抽出した作品となった。抽象とはいっているが、本質の仕事は変わっていないと思う。具象画はより心象風景表現がメインではあるが、抽象的表現と双方において、ありふれた世界の、ただそこにある美しい色彩を表現したいというこだわりは共通している。 今年11月末には具象画の個展を控えているが、自分でも今後どう展開していくのか気になるところではある。


昨年の秋、自由美術展の会期中に開いた2人展の際、作品について様々な感想や意見をいただきました。「よし、次こそは」と気合を入れて制作に取り掛かったものの、2月に中和ギャラリーでの個展が迫っていて、間に合うだろうかと心配でしたが、なんとか無事開催することが出来ました。毎回、展示した後、「こんなんじゃだめだ。何言われるかわからない。」と落ち込むのですが、今回は「人は人。自分は自分。」と呪文のように自分に言い聞かせていたせいか、何を言われても、「なるほど、そういう見方もあるのか。」と受け止めることが出来ました。少しは自信が持てるようになったのか?それとも開き直り?
私の場合、自然の中にある有機的な形に触発されて、そこから画面の中に自分の納得のいくかたちをどう作っていくか、それがテーマです。画面の中でどうしても必要な線やかたちが表れた時、なにものにも代えがたい喜びを感じます。
今、世界ではあちこちで戦争が起き、命を落としている人々がいる。そのことを前に無力感に襲われるが、歌人穂村弘が短歌のことを、「児戯のようなものだが、些細なことの復権でもある。」と言っているのを聞いてとても共感しました。私の創作も「児戯」のようなものだけど、自分にとっては必要なこと。それができる幸せをかみしめてこれからも制作を続けていきたいと思います



永畑 隆男
抽象絵画の軌跡
昨年、私の故郷である福島県白河市において「抽象絵画の軌跡」と言う少し大げさな題名の展覧会を開きました。会場はマイタウン白河アートギャラリーと言って壁画が70m 前後もあり天井も高く美術館並みのスペースでした。大作三十点、中小品二十三点、計五十三点、十七歳から七十五歳まで約半世紀の作品が並びました。
初期の作品は一、二点ずつですが、2000 年以降は個展で発表した作品を四、五点ずつピックアップして制作順に展示しました。四回位の個展を一同に展示した感じでした。個展の度に絵が変わって来ているので他人がみたらグループ展の様に見えてしまうのではないかと不安でしたが、展示を手伝って下さった人に聞いてみたら「そんなことないよ!変化が自然に感じ取れて良い展覧会だよ」と言ってもらえたのでほっとしました。
会期中は東京や仙台からミズさん夫婦を始め自由美術の方々約二十名がわざわざ白河まで足を運んで下さいました。皆さん一様に会場の広さと作品の数の多さに驚かれた様子でした。中には「永畑さんの作品は一点だけで見るよりも四、五点まとめてみると良く理解できるし、感動的だよ!」と言ってくれた人もいました。地元の人達の反応は今ひとつでしたが、普段、抽象画に触れる機械が少なく、また会場は街の中心にあるにもかかわらず駐車場が少ないために来場しにくい状況でもありました。
しかし、幸いなことに母校である県立白河高校で、「Forest」(130×260cm) という作品の寄贈を受け入れていただき、正面玄関に展示されました。若い人たちに観ていただければ幸いです。
最後になりましたが森真さん、松本明さん、日和佐さんには搬入搬出、展示等大変お世話になりました。心よりお礼申し上げます。また、展覧会を見ていただいた皆さん感謝に堪えません



絵を見て歩く、人々と話す、絵の話、描き方、道具、絵の具、教えてもらった先生、仲間、そんな日々が、絵に携わったお蔭で過ごせているような気がします。
私にとって、毎年、自由美術、団体展に作品を発表し、表現することで、絵を描き続けることが出来、その存在は、どんなに大きかったかと思います。
朝、林の中を歩き、空気のにおい、鳥の声、風、音を感じウオーキングする日々です。樹、枝、実、葉、朽ちていく木、自然のその中から、新しい芽が気がつかないうちにでてくる。その中から絵が描けたらと思っています。心のままに、ただあるように描ける。そんな時がいつか、やってくるかもしれない。悩みながら、キャンバスに向かって過ごしたいです。


立体部事務局の古賀氏の発案から実現したアトリエ訪問は4月末、立体部10名と平面部2名の参加で行なわれた。長野県東筑摩郡麻積村の山あいに池田宗弘氏の邸を訪問した。池田氏には笑顔で迎えて戴いた。私は池田氏邸を訪れるのは、奥様の納骨式以来で久しぶりである。アトリエを囲む庭の林の中にはあちらこちらに作品が置いてあり、真鍮を溶接して制作された作品群は風雨にさらされ黒ずんだ美しい色になっている。池田氏は庭に出ると歓迎の鐘を鳴らしてくれた。20 年程前に宇部の現代彫刻展の出品作で、旅人シリーズの一つで、6M程もある高さがある骨組で構成された鐘楼の上に鐘が吊り下げられていてロープで鳴らせるようになっている。宇部では開けた場所に設置されていたが、林の中では違った雰囲気をもって響いてくる。確かスペイン巡礼の道で巡礼者が霧の中で迷わないように鐘を鳴らし続ける教会をモチーフに制作されたと記憶している。
池田氏は 80 年代前半、スペイン巡礼の道を歩いて旅人シリーズを制作し、巡礼の道の大絵巻を描きサンテイアゴの大聖堂に奉納されている。和紙に描かれた一抱えもある大作の絵巻をかついで 90 年代になりまた巡礼の道を歩かれている。ロマネスク彫刻の研究にと歩かれたスペイン巡礼の旅は池田氏の制作活動の一つの支柱になっていると話を聞きながら感じた。古武道にも精通した池田氏のパワフルさと旺盛な制作意欲さを感じたアトリエ訪問となった。
その夜はホテルに一泊し歓談し、翌日近くの寺や石仏郡を見学し帰路についた。この寺の仏像はなかなか見るべきものがあったが、ここでは割愛しよう。


4月下旬に、長野県麻積村にお住まいの、池田宗弘氏邸を研修訪問としてお訪ねしました。中央線吉祥寺駅前に集合し、会員12名が車2台に分乗して出発しました。
池田氏は、彫刻界の先輩として長く活躍されています。展覧会場や部会での作品展示やお話しは、武道家の一面も加味されて、貴重なものです。
今回の訪問は、なによりの事として参加しました。
聖高原に近い池田邸は、屋根に特徴がある重厚な建築です。広い庭の木立ちの間に多くの作品が置かれています。真鍮直付けの大作が並び様々な表現に見入りました。庭の足元では、季節の草花や飼い猫たちが、顔を見せてくれました。
一階は、木彫・真鍮・ブロンズ等多様な材質の作品が並び穏やかな祈りの場を思いました。上へと続く巾広い階段は、石壁に添い上から降る光が印象的でした。
二階扉の中は、大窓のある静かな部屋でした。沢山の書籍があり、著作(巡礼の道・スペイン・サンティアゴへ)も拝見でき、資料や小品の話を伺えました。
別の部屋は、天井が高くカテドラルの様です。背の高い脚立の前に制作途中の壁画が描かれています。聖母子像は池田氏の少年期の想いもあるとの事でした。制作用脚立の高さに驚きつつ、更に制作が進む様子が窺えました。
今回の訪問は、私にとって幾つかの国を、旅した様でした。扉の中に、豊かな時間を体験したように思います。
池田様には、作家の大切なアトリエに受けて入れて下さり、ありがとうございました。御好意を糧としてまいります

















